私は 2011 年ごろより、かつて誰かが身に着けた衣類の皴襞を観察し、そのイメージを粘土の塊へ刻み、衣類の持つ記憶を焼き物に手作業で置き換え記憶させるという作品を現在まで継続的に制作・発表している。人間の身体に最も近いところにあり、その持ち主の内面と密接に関わる衣服は、皴襞その歪みや変形にかつての持ち主の心身の記憶を宿している。
日常において、衣服を形作っている布それ自体は刻々と変化し、留まることなく、また容易に色あせ朽ちていく。一方で、焼き物は高温で焼かれることで粘土の組成に化学変化が起こり、粉々に割れて再び砂粒になるまでは、与えられた形を半永久的にとどめ続けることになる。私はこのような焼き物の素材の特性や焼成のプロセスに触れるうちに、焼き物には与えられた形をとどめる「記憶メディア」としての性質があると考えるようになった。
現代のクラウドシステムから印刷物、文字、石に刻まれた像まで「記憶メディア」は様々な時代の様々なものとして存在している。では焼き物の「記憶メディア」としての今日的な意味とは何であろうか。
ざらざらとした土の肌やひび割れといった焼き物の生々しい表情には、触覚といった私の身体感覚を呼び覚ませてくれるような強い存在感がある。空気を孕んで変化し続ける、布でできた持ち主たちの生命の痕跡を宿した衣服を、手作業でつまり私の身体を通じて粘土に刻むことは、その人々の記憶とともに、私自身の身体性や時間をも同時に織り込んでいくような感覚がある。このような感覚と意識から生み出される衣服の像は、人の手で作られるからこそ混ざり込んでしまう様々なものを含みながら、単なる写実表現や模刻とは質を異にする、根源的で複層的な記憶の一形態となる。
あふれる情報に日々翻弄され、自分自身の存在が希薄にさえ感じられる現代において、私たちの存在の核となる微かな感覚を、手触りのある確かなものへ定着させたいという無意識の欲求が私の中にあるにちがいない。焼き物(残るもの)と布(消えていくもの)の対極的な時間性を持つ物質を通じて、人間の存在に纏わる微細な感覚を捉えるイメージや状況を作り出したい。