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最近考えていること

私たちはもうずっと前から、個人の能力やコミュニティの価値を、ものの量ばかりで測るようになってしまいました。もし私たちがGDPで国の価値を判断しなくてはならないのであれば、GDPには私たちが怪我をしたときに出動する救急車や、大気汚染やタバコの広告も含まれます。GDPには、玄関の特殊な鍵や、それを無理にこじ開けた者を入れる牢屋も含まれます。

GDPには、セコイアの木の伐採や大自然の喪失、無秩序な都市開発までもが含まれます。GDPにはナパーム弾や、原子爆弾、路上で起きた暴動を鎮圧する警察の防弾車が含まれます。GDPには、ライフルやナイフ、子供たちにおもちゃを売るために暴力を美化するテレビ番組も含まれます。

GDPには、私たちの子供たちの健康や教育の質、遊ぶ喜びは含まれません。それに詩の美しさも、結婚も、啓発的な公共の議論も、法を遵守する公共機関も含まれません。私たちの時間も私たちの勇気も、私たちの知恵も私たちの知識も、私たちのおもいやりも、私たちの国への献身も含まれません。

簡単に言うと、GDPには、私たちに人生を生きる価値を与えてくれる全てが含まれないのです。

これは政治家のロバート・ケネディが1968年におこなった有名な演説の言葉です。

※原文で「アメリカ」となっている箇所を「国」と表記しています。

数か月ごとに報告されるDGPの成長率の報道に、ある時から疑問を抱くようになりました。「〇月~〇月期のGDP経済成長率は前年比の+〇パーセント・・・」という内容の報道を一年のあいだに何度も耳にします。比較の対象は常に前年の同月期で、報道はその増減が淡々と読まれるのですが、暗黙裡にプラス成長が望まれている、成長し続けなければならないという強迫観念のようなものが存在するように感じるのです。(マイナス成長ってすでに成長ではないのでは?)これはGDPに限らず、すべての経済活動にもあてはまります。人間の内面的な成長などとは異なる数字的な成長です。

政府はあたかもGDPの成長が景気の回復や堅調を裏付け、国民生活に豊かさをもたらすかのように喧伝しています。経済成長の裏側では、長時間労働や物質的な大量消費、ペースの早い社会生活といった風土が構築され、それに伴い私たちの多くは社会的な苦痛に耐え、常に競争にさらされ、心の平穏を犠牲にしてきました。(参考/ 国連大学 参考記事https://jp.unu.edu/publications/articles/the-gross-domestic problem.html)

常に競争にさらされ、‘‘イノベーション‘‘を求められ走り続ける。経済の循環のため、‘‘新しいもの‘‘のための場所を確保するために沢山のものが端へ追いやられていきます。私たちがそれを好み、愛していたとしてもです。そんな世界で本当にいいのでしょうか。

私は資本主義経済の行き渡った日本で暮らしています。お金を使うことなく、また物を購入し消費することなく生活することはできません。グーグルもアマゾンも利用しますし、大企業が作った製品も利用しています。

しかし、少し立ち止まって考えてみようと思います。環境問題に意識的な夫の生活態度からも学び、冷暖房を使う際は、そのエネルギーとなる限りある資源や排出される二酸化炭素のことを考えて利用しています。近い将来に実現できるかはわかりませんが、自宅で自然エネルギーによる発電ができるようになりたいと考えています。できる時には徒歩や自転車を使って移動します。(娘の通園はいつも自転車です)持続可能な社会を実現するために努力している企業を応援しています。できる時にその方針や考え方に共感する企業の商品を購入します。最安値でなくても地元の商店で買い物をし、地元で栽培された野菜や地元の企業によって生産された商品も買いたいです。

何年も前からこれらのことを無理のない範囲で習慣化しています。すべてを完璧に禁欲的に行うことは苦しいですが、この小さな選択の積み重ねを多くの人が行うとどうでしょうか。残念ながら今の日本の政治は私たちの暮らしを豊かにするためには動いてくれていません。私たちが自分たちやこれから生きていく世代の幸せとはなにかを考え、そのためにできることを少しずつ実行していかなければならない時が来ていると感じています。

自分たちの自由のために闘う香港の若者たちの決死のデモや、国連気候行動サミットでおこなわれたスウェーデンの若き環境活動家グレタ・トゥーンベリさんの演説に大きな刺激を受けたのは言うまでもありません。

最近こんなことを考えています。学びながら考えていきます。

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