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持続可能な世界、持続可能な(?)アーティストの活動

国連の定めた「SDGS」の開発目標の普及や周知によって、「持続可能な社会」ひいては「社会的問題の関心の高まりや、解決(飢餓・貧困、保険・教育・福祉の確保、働きがい、ジェンダーの平等、平和)」へ繋げようと大きな流れが生み出されつつあります。


大きな企業はもちろん社会的な責任が求められますし、地方の中小企業から私のような個人までもが「SDGS」を語り始めました。それが時に時勢に乗じるためのポーズのように見えることもあります。自分自身もまだまだ浅い関わりでしかありません。例え最初のきっかけがポーズだったとしても取り組みや行動を起こしたことで、さらに学び知識を深めて続けていけばいい、そう思いながら過ごしています。自問の日々です。


「環境に配慮した生活」について、自己流にできることを実践してきましたが、もっとできることはないかと情報を集めることは、何よりおもしろいです。調べるほどに、生活のなかでこのような取り組みを、こんな生活をしている方がいるのか!と発見があり、驚かされ、憧れ、可能性が開かれます。


まだまだ学びは始まったばかり。もう一歩、生活のなかでできることを深めたいと思い始め、最近出会った本が服部雄一郎さん・麻子さんご夫妻の著書「サスティナブルに暮らしたい」。高知県で環境に配慮した、‘’豊かな‘’暮らしを実践されているご家族のエコの実践やコツを紹介した書籍です。ここまで実践されているのかと、とても参考になりました。


本のなかで、私が先日書いたことと似ている感想や意見を服部さんも語っておられたりして、「わ、心で思っていたことと同じことが書かれてる!」とドキッとしながら、また頷きながら読みました。(企業の誠意が問われる過剰包装、買い物は投票)やはり、私一人ではなく多くの人がそう感じているのだと勇気づけられます。


学べば学ぶほど、自分のこれまで当たり前と思っていた暮らし方に新しい視点が生まれ、時に取り組むには経済的なバランスや初期投資が必要で始められないこともあるけれど、1mmでも、とにかく何かが確実に良い方向に向かう。そう思うと心もすがすがしく、自己肯定感も爆上がりではないでしょうか。社会の役に立てているのかよく分からないアーティストの私にとって、「何かの役に立てている」という充実感は嬉しい副産物かもしれません(笑)


アートの世界で言うと、例えば私のように立体作品を、しかも電気やガスといったエネルギーを必要とする窯を用いて制作しているような場合は、なかなかエコフレンドリーとは言えません。焼き物やガラスなどを素材とした作品は、非常に多くのエネルギーを消費して作られています。そう考えると、電気窯のエネルギー源を再生可能エネルギーによる発電から得ることや、オフグリッド電気窯などといった取り組みができたら良いのになと思います。私自身はテスト用の小さな窯しか持っておらず、主に共同工房の電気窯を借りて制作しています。器などを制作しておられる作家さんと比べると使用頻度は少ないので、窯のオフグリッド化にがっぷりと関われるような’’場所’’がないのが実情です。産地と関わりの深い作家の友人に今度話をしてみようと思います。


あとは、失敗したり、長期保管が難しく廃棄するような作品を減らすということでしょうか・・・つまり長く楽しんでもらえる良い作品を作ること。これもなかなか、作品に関することは「効率良く作る」というような量産ベースではないですし、「良い」作品を作るためにアーティストは心身を削って過ごしているのですが、難しいです。何もないところから新しい価値観を生み出すアートは試行錯誤の連続。その過程ではどうしても役に立たないようなものも生まれてしまう。効率のみを重視すれば、余白から豊かな何かが生まれる可能性が失われてしまいます。すべてを完璧にすることはできませんが、できることを考えながら過ごしています。


そういう意味で、私が近年取り組んでいる古着を用いた作品はエネルギーを使わずに、また古着から制作するという「アップサイクル的な手法}(先日、彗星倶楽部から発刊されたカタログ「きのふいらつしつてください」のテキストのなかで、デザイン史家の菊池裕子先生が拙作について触れてくださったテキストより」)を用いた作品にも今後まだまだ展開の可能性を感じています。


言わずもがな、廃品の利用は以前からアーティストがやってきたことではあります。資本主義経済のなかで、商業的に成功した有名アーティストに、より一層の資本が集まり再投入されることで、より大規模なショーを作り上げ利益をあげるという資本主義経済的な‘’好循環‘’によって、‘’持つもの‘’がますます富んでいく・・。資本主義経済のなかで生きる以上、作品が市場に取り込まれていくことは避けられないとしても、アーティストの態度としてアーティストであるということは商品的作品を生産し、利益を得ることなのか。青臭い理想論と言われても、やはり芸術の本質は人間の存在への問い、だと思うのです。アート史の中で、自らの作品が権威的な構造や経済システムに取り込まれていくことへの抵抗として様々な動きが生まれてきましたが、高価な材料や設備を必要としない廃品や身体自体を用いた表現手法もその一部でした。


そのような揺り戻しはすでに起こってきているのかもしれません。資本主義経済による社会のなかで暮らす限り、作品がコレクションされることで得られる金銭はアーティストの貴重な活動資源です。金銭がなければ活動や生活することができません。どうすれば、製品と化した魂のなくなったような作品を量産することなく、収入を得ながら活動を持続させていくことができるか。アーティストの永遠の課題かもしれません。


会社員や教員などの仕事と、アーティストとしての制作、発表活動を並行させるというのが現実的な方法のように思いますが、仕事の傍ら作品の制作はもちろん、実験を重ね思考を深めたり、展覧会の設営へ出向いていくことは、簡単なことではありません。二つの仕事が相乗効果として活動ペースを作ることができるアーティストもいると思いますが、制作時間を確保しようとすると正社員として働くことが難しかったり、パートタイム的な不安定な仕事に就かざるを得ないという現状があります。さらに家族や子供がいれば、さらに活動のための時間の確保は難しくなるでしょう。体力、時間にまだ余裕のある若いうちは良いですが、だんだんと苦しい持久戦になっていきます。何とかアーティストが、アーティストとして培ってきた能力を生かし、収入を得ながら生活と活動を継続させていけるような仕組みが出来ないだろうか。私はまだこの問いの答えを見つけられていません。


長々と書いてしまいました。こんなことを考えながら、目に前には新アトリエの整備や制作、やるべきことは沢山あります。

さ~、ひとしきり考えた後は、やるべきことをパパッとやってしまいましょう!今日はここまで。







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