うつしみ(現し身)
「うつしみ」という言葉はもともと古典の世界の中で空蝉(うつせみ)という漢字をあてられるように現世の存在をはかなく思い嘆くような意味を持っていた。それが近代になると齋藤茂吉などの俳人たちにより現し身という文字をあてられ、現世に生きる存在としての身、人間存在という肯定的なニュアンスの言葉に変化をした。私は後者の、この「現世を生きる人間存在」を肯定的に表す「うつしみ」という言葉に出会い、また、「写し」「移し」「映し」などの意味にも拡げながら、現代に生きる人間の姿、これら衣服のかつての持ち主たちの存在を浮かび上がらせる作品を制作している。
これまでの作品シリーズの中では、誰のものであったかもはや知ることのできない、「匿名の衣類」をモデルとして扱ってきた。この「うつしみ」という作品シリーズでは作家自身の個人的な人間関係から、衣類を提供してもらう人物を選び、作家本人が提供者を訪ね、衣類を挟んで会話をしながら、提供者の記憶や感覚を一緒に掘り下げていく、あるいは共有させてもらうというプロセスが新たに加わる。
会話は録音され、私はそれを繰り返し聞きながら、その人物の生き様を強く表すような本人の言葉を選び出し、タイトルとして作品に添える。タイトルの言葉から鑑賞者はその人物に纏わる物語を完全に知ることはできないが、前後関係や主語の明確でないタイトルの言葉は、時に笑いを誘うようなユーモラスな表情を伴って、時にはシリアスに、鑑賞者自身の体験と共鳴する。
こうして得られたモデルとなる衣類と会話をもとに、提供された衣類を今度は「土」に置き換える。「土」「陶」という素材の持つ多様な性質、触覚に強く訴えるざらざらとした質感、重み、独特な存在感の強さ、脆さ、焼成の中で起こる化学変化、イメージの定着などは、非物質的な世界で物事について考えることに慣れた現代に生きる私たちに「生」<せい/なま>を突き付けてくれる、引いては私たちがこの世に存在することに纏わる感覚を喚起してくれるものであると確信している。
生きるということは何かを地道に積み重ねるようなこと、このような感覚は多くの人が抱いているところではないかと思う。編むこと、紡ぐこと、刻むこと、このような手の中から生まれる行為は、直感的に生を営む感覚と結びつくと私は思っている。柔らかな粘土に<衣類(存在)>を<刻む>という行為は、私自身の生理にも、直感にも不思議なほどにマッチしていると感じる。粘土の塊を前にしながら、他人の記憶や時間に自分のそれを織り交ぜながら、編んでいるような感覚になるのだ。
これまでのうつしみシリーズでは、作家の祖母、大学時代の友人がそのモデルとなり衣服を提供している。
2016年
果園
果園(かえん)とは野菜や果物の畑を表す「菜果園」という語から作家自身が作った造語である。
レースや刺繍には古くから植物や花々がモチーフにされている。実り豊かな庭のようだ。小さな微生物や細胞のようにも見えてくる。古いレースや刺繍の小片をモデルとし、微細な生き物の世界を覗き見るような生命の小さな庭をつくる。
2016年
青む膚(はだ)
それはガーゼのような柔らかい素材できていて、持ち主の皮膚の呼吸や汗や体温を繊維のはざまに含み、湿り気を感じさせる。それは不要になった皮のように床に広がっている。しかしその膚はひんやりと少し青ざめている。
2016年